dZAKIYAMAのブログ

若手教師が日々感じたことを書いていきます。

考える力

やっと体育祭が終わりました。

初教員側であったので,また違った感じでした。

準備から何から何までも,わからないことばかりでした。

現に役割をいただいてましたが,なぜその役割に置かれているのかわけもわからず,何となくやっていました。

すると先輩から,

「お前はなんでこの役割になっているかわかるか?2年後3年後と考えて,この役割の長になることまで考えていないとだめだぞ。だから今の先輩の動きとかを見ろ。どんなことをするのか,やらなければいけないのかも考えなよ。」

まあ確かに言われればその通りかもしれません。

しかし,明らかにそこまで考えられてないであろう役割も校務分掌で割り当てられている気がします。

そこの差が正直わかりません。

けど,言われたからにはそうなんだろうなと思います。

そう考えると,今やっているいろんなことが,何かしらの意味を持つものであるように感じてきます。

ただ決まっているわけではないのですね。

しかし,どういう意味を持つのでしょう。

それはただ単に,将来はこの役割で活躍してほしいということなのか,それともこういう視点を持って動けるようになってほしいのか,またはどちらもか。

何にしろ,その意図は知っておきたいものです。

どういう意図で任されたかわからないと,どこまで,どれくらいやっていいものか,方向性はどうなのかが分からないし,モチベーションも上がらないのです。

そして,それは子どもも同じであると考えます。

これは最近よく思うことです。

彼らはとても素直に動くし,答えてくれるので,こちらの意図が伝わってないときはわかります。

また,そういう瞬間があることで,自分を振り返る良い機会になります。

だからこそ,自分が話すことや語ることは大切にしていきたい。

よりそう思うようになりました。

他の先輩の先生から,

「体育祭の後,帰りの会のとき子どもになんて言うか考えている?」

と聞かれました。

正直考えてなかったです。

まあ,体育祭がイベント的であり,いろんな意味を持つのはわかるのですが,それは普段の生活の活動も同じくらい重要であると思うのです。

だから何か特別なことを話すことは考えていませんでした。

むしろ子どもには,私の枠なんかにはまってほしくないので,彼らが素直に感じたこと大切にしてほしいと思っています。

それが一番彼らの中で,「学び」に繋がった可能性は高いと感じますので。

結局,体育祭の帰りの会では,そのようなことを語りました。

その思ったことを,良い意味で今後の学校生活や人生で生かしてほしい。

そう願うばかりです。

ここからは完全な反省になります。

それは生徒に「自分で考えて動きなさい」と言っている自分が一番自分で考えて動けてないことに気が付きました。

私はわからないことがあるとすぐに聞きます。

しかし,今まではただ聞いていました。

それであるとき,先輩方に「自分ではどこまで考えてんの?ただ聞けばいいってもんじゃない」と怒られてしまいました。

まあ,確かにそうですよね。

そんな奴が生徒には

「忘れものをしたっていうけど,なんで忘れたの?んで次はどうすんの?自分の考えなしに言われても困るよ」

と言っているのはおかしいですね。

自分も生徒ともに修行しなきゃな(笑)